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◇第2話





アルドを拾ってから早くも四日が経った。一番ひどかった傷もほとんど治り、祖父からは付き添いがあれば動くことの許可も出るようになった。
 そしてその日も、ロドリグは祖父のお許しを得てアルドをつれて庭の散歩に出ていた。




     *     *    *



「いー天気ですね。お散歩日和ですよ」
「そーですねぇ。ここのお庭は広いからずっと歩いていても飽きないですしね」
 そんなやり取りから始まった、まったりとした会話をしながら広い庭の中をあてどなく歩き回る。お互いにぼんやりとしていたのか、いつのまにかエドの屋敷の庭から本館の庭に来てしまっていた。もちろん最初にそのことに気付いたのはロドリグだった。
 様式が変わった庭の造りにサッと青くなる。
「どうしたんですか? ロドリグ君」
 それに気付いたアルドがひょいと顔を覗き込むのと同時に、ロドリグはすぐにその手をとって来た道を引き返そうとした。その尋常ではない様子にアルドも逆らわずに素直に腕を引かれるままに歩き出す。
 しかしそれらの行動は一足遅かった。
「あらロドリグ」
 妙に絡み付いてくる女の声に、ロドリグはぎくりと身体を強張らせる。それでも悟られないようにと注意を払いながら、余裕を装った動作で振り向いた。
「――――なんでしょう? 叔母上」
 あからさまに作り物の笑みを浮かべて会釈してきた甥っ子に、そのことに気付かない様子で満足そうに鼻で笑うと、叔母は無遠慮な視線をアルドに向ける。
「なぁにその子? 顔形はとても良いけど、随分汚らしい服を着てるじゃないの。おお汚らわしい。貧民街のお生まれかしら?」
 クスクスと侮蔑の笑いを浮かべて見下した発言をしてくる。この叔母は、気付いて言っている
 ロドリグは苦い笑みを浮かべて、それでも声を荒げたりせずに答えた。
「叔母上、この方はお祖父様の館で療養中のお客様です。その言い方はおよしください。それにこれは、療養中にお貸ししてる――――私の服です。それのせいで汚らしいと仰るのでしたらご訂正ください」
 下手に出る甥のその様が余程心地良かったらしく、叔母は心底楽しそうに、見目だけは麗しい顔に醜悪な笑みを浮かべる。そして、満足げに笑い声を立てた。
「あら、そうだったの? それはごめんなさいねぇ。そんな安物、あなたの物だとは思わなかったのよ。悪く思わないで頂戴ね。それにセザリスに会ったばかりなものだから余計に……ね」
 悪意に満ちた言葉が容赦なく降り注ぐ。しかしそれでも、ロドリグは曖昧な笑みを返すだけだった。
 黙って成り行きを見守っていたアルドの視線にも、叔母の相手をするのに手一杯は気付かない。
「あらあら私ったらこんな所で無駄話なんてしてしまって。もう行くわね」
 こんなところと無駄を強調すると、叔母はそそくさと歩き出した。ロドリグはほっとひそかに息をつく。するとその瞬間、叔母が「ああそうだわ」と振り向かずに大きい声を出した。この嫌がらせは心臓に悪い。
「ロドリグ? もっとちゃんと勉強しなくては駄目よ。ただでさえ出来が違うのだから、これ以上離されたら目も当てられなくてよ?」
 誰と、とは言わない。嫌味全開な叔母に向かって微かに眉を寄せたものの、やはりロドリグは余計なことを言わずにただ短い返答を返すだけだった。
 派手な装飾を背負った叔母の姿が消えるまで脱力して見送ってしまっていたロドリグ。アルドは横目でそれを見てから、着ている服を引っ張って息を吐いた。
「……僕、こんな立派な服着たのはじめてなんですけどね?」
「――――叔母上は僕のこと貶(けな)したいだけですから」
 随分悲しいことをあっさりと言うものだ。アルドはもう一度叔母が去っていた方向を見る。
「あの方は?」
「父の妹です。隣町に住んでいるんですけどたまに里帰りしてくるんです」
 隣町、ね……。目を細め噛むように呟いたアルド。ロドリグが不思議そうに彼を見た時には、その表情はいつもの柔らかいものになっていた。
「セザリスとは?」
「兄です。僕と違って出来のいい人で、一族の期待の的なんですよ」
「――――君のご家族は皆ああなんですか?」
 『ああ』、というのが叔母のあの態度を指していると瞬時に理解したロドリグは苦笑いして首を振る。
「いいえ。出来が悪いとはよく言われますけどあそこまであからさまなのはあの人ぐらいですよ」
 怨む気にならないのは、あの人も昔兄である我が父と比べられ不遇をしていたと祖父に聞いたことがあるから。だからといって同じ思いを甥にさせようと悪意を向けるその考えは理解出来ない。
 ただ、哀れだと思う。
「――――でも、ロドリグ君もそれを受け入れてしまってるんですね」
 不満げに、アルドが口を開く。ロドリグは驚いた顔を彼に向けた。
「ロドリグ君、君の優しい所は長所です。僕もそれに助けられました」
 アルドもまた、ロドリグに向かい合う。厳しさを潜めた蒼の眼差しが強くロドリグを見据えた。
「けど、全てを許すのは優しさじゃなくて全てをどうでもいいことと見捨てる残虐さです。何事にも関わりたくないという甘えです」
 容赦ない言葉だ。しかし。
「君は医者になるのでしょう? ならそのままじゃ駄目ですよ。医者なら、庶民に親しくあってくれるなら、怒るべきことは怒ってください。言いたいことは言ってください」
 ――――しかし、優しい言葉だ。
「優しいだけの人間なんて、信用出来ないですよ」
 そう締め括ると、アルドは来た道を引き返していく。その背を見て、ロドリグは少しの間感慨に耽った。
 たった二つ上なだけなのに、彼はその二年で自分よりずっとたくさんの経験をしてきたのだな、と。
 アルドの言葉を心中で繰り返して、ロドリグはその背を追いかける。と、途中あることに気付いた。
「アルドさん、よく道覚えてますね。ここって結構広いのに」
 隣に並んで感心して褒めると、アルドは一瞬の間を空けて笑いかけてきた。
「僕道覚えるの得意なんです。一回で覚えられるんですよ。凄いでしょう?」
 珍しい自慢。それでもふざけた物言いは彼に似合わなくて、ロドリグは思わず吹き出してしまう。楽しげな笑い声を立てた。しかし、その笑い声と一緒に忘れてしまったらしい。先の嫌な思いも、今気になったばかりの一瞬の空白の意味も。













◇第3話





「そろそろ出て行きますね」
 アルドがあっさりとそう口にしたのは、叔母に庭で会ったあの日から更に三日経った日だった。
「――――あ、と……そ、うですね。そろそろ怪我も完治に近いですし、大丈夫だと思います」
 返答が遅れたのは、せっかく出来た友人と離れてしまうことが惜しかったから。けれどここで嘘を言うのは医者の卵として決して出来ない。してはいけない。
「治ってよかったです。おめでとうございます。ついては主治医から一言――――」
 コホンと咳払いして貫禄を出そうとして失敗する。アルドが似合わないですよと笑ったためだ。自分でも自覚のあったロドリグは確かにと笑い、それから、真面目な顔を彼に向ける。
「――――二度と、危険な真似はしないでください」
 思いがけない言葉に、アルドは笑顔で固まる。
 その彼から一瞬も目を逸らさずに続ける。はじめから気付いていて、今日までずっと聞きも言いもしなかったことを。
「あの裂傷は全て刃物で出来たものですね。……何をしたのかは聞きません。ですが、医者――見習いですけど――として言わせて貰います」
 当然のこと。当然過ぎて忘れている人が多いけれど、それを思い出させるのもまた医者の務め。今、ロドリグは自分がそれを果たすべきなのだと、そう判断する。
「命は大事にしてください。生きていなくちゃ何も出来ないんですよ。やりたいことも、しなくちゃいけないことも。――――分かりますね?」
 深く息を吸い、真正面からアルドを見据えると、ロドリグはしっかりとした口調で告げた。
 その毅然とした態度にすっかり閉口してしまったアルド。少しの沈黙の後、彼は顔中の力が抜けたかのように相好を崩す。とても嬉しそうに笑う彼に、てっきりまた似合わないことを言ってしまったかとロドリグは焦った。しかし、おたおたする彼の前に、アルドはその頭を深く下げる。
 息を呑んだロドリグに比べアルドの行動は素早い。さっさと立ち上がると傍らの窓枠に手をかけた。
「ちょ、アルドさん。待ってください、出て行くならせめて入り口から――――」
「お断りします」
 それはもうあっさりとお断りされてしまった。ぽかんと口を開けるロドリグに、アルドはいたずらっ子の様な笑顔でウインクを飛ばす。
「泥棒が堂々と玄関から出て行くなんておかしいでしょう?」
 瞬間、ロドリグの頭の中は真っ白になった。
彼は今なんと言った? ……泥棒……??
「あ、安心してください。ここでは何も盗ってませんから。何しようにも君がついて回っていたから、何も出来ませんでした。全く、君のお祖父さんの観察眼と君の献身的態度は困ったものですよ」
 困ったと言いながらどこか嬉しそうな彼に、ロドリグは返すべき言葉を失う。その間にアルドは身軽に桟に足をかけていた。そのまま行ってしまおうとするのをロドリグが止めるより早く、彼は自ら振り向く。
 そして、真剣な眼差しを抜けてきた。
「ねぇ、約束してくれますか? もし僕みたいに苦しんで困っている人がいたら、僕にしてくれたみたいに助けてくれるって。そんな医者になるって――――」
 約束してくれますか? 
 言葉の変わりに差し出された真摯な視線に、ロドリグは言葉では応えなかった。変わりに、小指を差し出す。届くとは思わないし、こちらに来てもらいたくてそうしたわけではない。ただ、一番分かりやすくて、単純で、けど子供のように純粋な気持ちで行える約束の仕方だと、そう思っただけ。
 その思いを分かってくれたのか、アルドは柔らかく笑うと、同じくその場で小指を差し出してきた。
 そして一瞬後、金髪碧眼の――実は泥棒だったという友人は姿を消す。
 庭から聞こえてくる足音が遠ざかり消えるまで、ロドリグはそこで見えない友の背を見送った。






 庭に駆け出たアルドは投げかけられる視線に気付いてはっとそちらを向く。
 視線が合ったのは、目付きの鋭い男だった。纏う雰囲気が全く違うというのに、アルドはその男がロドリグの兄セザリスであると悟る。
 整備された道にいる彼と獣道にいるアルド。その間を遮るのは茂みが一つきり。立ち止まってしまった時点でアルドの逃げられる可能性はかなり落ちたと言っていい。しかし何を思ってか、セザリスは彼から目を背けるとそのまま祖父の館へと歩き出した。どうやら見逃してくれるらしい。
 弟と違って何を考えているか分からない男を尻目に、アルドは足早にそこを駆け抜ける。
 高い壁を木を伝って飛び越えたアルドの側に数人の少年達が駆け寄ってきた。
「お帰り。守備は?」
 どうやら泥棒仲間らしい。アルドは仲間達に一度視線をやってから応えずに歩き出した。少年達は慌ててその後を追いかける。
「おい?」
「ここはやめです。次行きますよ」
「やめって……! あーっ、じゃあ次ってどこだよ」
 問われ、アルドはにっと笑う。
「隣町。いくら盗んでも心が痛まないカモを見つけましたから」
 もちろん、叔母のことである。
「そっか。……でも何で? わざわざ酔っ払いからかって怪我までしたのに、台無しじゃん」
 仲間の疑問に、アルドは毒気のない笑みを浮かべるだけで何も答えない。仲間達は皆首を傾げ合う。それに、アルドはようやく嬉しげに口を開いた。
「いいお医者さんがいるんですよ、この家には」
 だから見逃します。
 言外に含まれた思いを正確に汲み取った仲間達は疑問の一切をその一言で晴らした。彼らはあくどい連中からは盗むが善良な相手からは盗まないと、最初にそう決めていたから。
「じゃあ仕方ないな。納得」
「そーだなー。じゃあぱっぱと隣町行こうか」
「おー! でもってその後はこの街行こうぜ」
 仲間の一人が歩きながらばさりと地図を広げ、赤いペンでマークした場所を指差す。
「この街にさ、ロダー家の娘が一人で屋敷構えてんだって。次の潜入先ここな」
 意気揚々と話している仲間達の声を背中に、アルドは高い空を見上げた。
 久し振りに、青い空を見た気がする―――。
「おい聞いてんのか? ここに潜入の時も女装だからな。次の街で勘取り戻せよ、ミリアルド」
 久々に呼ばれた本名に、アルド―――ミリアルドは少年めいた微笑を閃かせると、瞬きと共に少女の顔になる。そして、振り返ることなく去って行った。
 心優しい医者の卵との思い出を心の奥底に仕舞いいれて――――。







 それから、数年の時が流れる。














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