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◇第4話





軍の看護学校に入って六年が経った。
今年で卒業となるロドリグは、二ヶ月後には海軍に正式入隊。巡洋艦ミネルヴァの搭乗員となる。卒業試験も無事に済ませ優秀な成績も収め、何事もつつがなく、後は卒業を待つだけであった。
 しかしその日、彼は珍しい剣幕で教官達に詰め寄っていた。




     *     *     *




「納得出来ません!!」
 強い口調で大声を出してくるロドリグに教官達も戸惑った様子を隠せずにいる。
「し、しかしだねエリオット君。君はせっかく就職も決まったというのにこんなものにわざわざ……」
「こんなものとはなんですか!? 今こうしている間にも苦しんでいる人がいるというのに!!」
 いつもの穏やかな彼からは考え付かないほどの剣幕に周りの教官達は色を失う者が増えていく。その一方で、覗いている学生達からは応援する声が飛び交っていた。
 ものの三十分で早くも学校中の騒ぎになっているこれは、後輩の学生が慌しくロドリグの元に駆けてきたことから始まる。
 彼の手に握られていたのはくしゃくしゃに丸められた一枚の紙だった。教官室の掃除をしている時に偶然ゴミ箱の中から見つけたという。
 一体何をそんなに慌てているのかと受け取ったそれを見たロドリグの表情は一瞬で豹変した。
 それは、ある村からの切実な救援要請だった。
 拙い文字で綴られた村や村人の状況。何故軍学校に手紙を出したかの理由。そして助けを懇願する言葉がいくつも連ねられていた。
 しかしそこに押されていたのは赤い「不許可」の判子。あまりにも無慈悲な判断に、ロドリグはすぐに教官室に乗り込んだ。そしてそのことが生徒の口から耳に口から耳に伝わって、結果学校中の注目がここに集まることとなった。
「しかしねぇ、苦しんでいる人がいるからと我々が動くのもどうかと」
「苦しんでいる人達のために動かないで、医者(僕達)は誰のために動くんですか!!」
「だが我々は軍属だエリオット君。民間人は民間の医者に診てもらえばいい」
「この手紙にちゃんと書いてあるじゃないですか! 彼らを診る医者が足りないって!! こんな必死な要請を無視するつもりですか?! 第一軍属だと言っても平時は民間への手助けも認められているじゃないですか」
 恐らくここまで彼らがこの村に行くのを渋るのは、距離が遠い。卒業を間近に控えたこの時期に余計な騒ぎを起こしたくない。そして、この手紙に書いてある症状が軽いものだと見ているためだろう。
 しかしロドリグはこれを「軽いもの」とは見ない。
 この村は最近独立したらしい。以前は領主の圧政で教育に回せる金がなく、独立した後もなかなか教育に手が回らないと聞いている。そんな村で難しい言い回しが日常遣われているはずがない。そのため伝えられる症状が軽いものに見えてしまっているのだと、彼はそう判断したのだ。それにそもそもこの手紙は医者の直筆でない。本来こういうものは医者が手ずから書くべきであるのに、何故そうしなかったか。ロドリグにはその暇すらないのだという答えしか出せない。
「しかし……」
 まだ渋る教官に、ロドリグはキッと眦を決すると、自分達を隔てる机に両拳を強く叩きつける。
 シンと辺りが一斉に静まった。ロドリグはその中で決然と言い放つ。
「僕が行きます。もう医師としての権限も持っていますから、僕が責任者になって現場に向かいます」
 一切の迷いを見せない彼に押されかけた教官は、しかしその意地を見せて激しく首を振った。
「駄目だ駄目だ! 君は二ヶ月後には海軍所属になるんだぞ?! そんな所に行ったら半月は帰って来られないじゃないか。許可は出来ん」
「だからといって見捨てられません」
「エリオット君!」
 凄みを利かせて怒鳴る教官にすら、ロドリグは揺れない視線を返すのみ。すると、また別の教官が宥めようとしてくる。
「エリオット君、よく考えなさい。ここでそんな行動をとってどうする? 軍入りを蹴ったとなると君の、いや一族の名誉に傷が付く。それでも言いのかい?」
 脅しも入った言葉に、ロドリグは怯えなかった。
「ここで人命を見捨てて自らの名誉を重んじることこそ医学の名門エリオット家の恥です。たとえ家から勘当されても軍部を追放されても、僕は命を見捨てたりしません」
 決して引く気のない彼の宣言に、教官達は口をつぐんだ。どれほどの覚悟をもってそう口にしたか、彼らにそれは量れない。けれど彼らは知っている。ロドリグが医者としてどれほど優秀か。医者であることをどれだけ誇りに思っているか。
 長い沈黙の後、教官長が重く息を吐き出した。
「――――分かった、許可しよう」
 念願の言葉にロドリグ達生徒は歓声を上げ、教官達は非難の声を上げる。それを全てかいくぐり、教官長は厳しい視線をロドリグに向けた。
「だが君は本当に行くのか? 未来を捨ててまで」
 問いかけにロドリグは真剣な顔で頷く。教官長はそれを見て残念そうな顔で微苦笑した。そしてすぐに遠征の班を作るようにと指示を出す。
 名目は、課外演習。







 その様子を、隣の棟の迎賓室から眺める視線が二対。
「――――どうします艦長? このままだと優秀な人材逃がしてしまいますよ」
 青灰色の髪の青年が気にするように隣に立つ上司に目を向けた。その視線を受けると、藤色の髪をした女性は面白がっている視線を向かい下の部屋に注ぎ込んだままあっさりと告げる。
「ミネルヴァは二ヶ月じゃ帰って来れない場所まで向かう。お互いに遅刻したから入隊の時期は繰り下げだ。そうだな?」
 何言ってるんですか!! と怒鳴ろうとして、青年はしばし葛藤する。そして、疲れた様子で了承を口にした。どうやら上司の破天荒には慣れているらしい。
女性は満足げに笑うと、不敵は輝きを目に閃かせる。
「誰があんなでかい魚を手放すか。私は優秀な人材が欲しいんだ」
 遠い約束を、果たすため――――。
「―――さぁ、帰るぞヴォネガ副官。次にこの大陸に来るのは半月後だ」
「――――了解しました、ナディカ艦長」
 上着を翻すナディカの背を、溜め息と共にヴォネガが追う。わざわざ「副官」と付けたのは、これ以上は口出し無用という暗黙の命令。それが分からないほど短い付き合いではなく勘も鈍くない彼は、上司の希望通りにその件に関してそれ以上は何も言わなかった。
 この破天荒な艦長エリザベス・ナディカと苦労性な副官ルイス・ヴォネガこそ、後にロドリグの乗る巡洋艦ミネルヴァの上司達となる。の、だが、それはこれからまだ半年は先のこととだ――――。




     *     *     *




 一ヵ月後、救援要請に応えて現場に赴いた看護学校の学生・教官達は想像以上の状況に愕然とした。しかしその中唯一冷静であったロドリグ・エリオットの姿に鼓舞され、徐々に冷静さを取り戻していったという。
 そしてそれから四ヵ月後には村中の病人・怪我人はほぼ全員が完治。また一ヵ月後に学校に戻ったロドリグは、それから十日遅れで訪れて来たミネルヴァに搭乗することとなった。
最初は申し訳ないと断ったロドリグが艦長エリザベス・ナディカの押しに負け半ば強制的に入隊させられた、とはしばらく学生の間で有名な話になる。







 そしてそれから、また数年の時が経つ。













◇終話





『乗船希望者あり。これより数分停泊します』
 二度流れたアナウンス。
 ややあって後方で広がるざわめきに珍しく好奇心を出したロドリグは、一緒にいた水兵さんと連れ立ってそちらへと向かった。
 途中何人かと行き会いながら辿り着いた先では豪華な船が泊まっている。そこから搭乗してきたらしい人物を見て、ロドリグは目を瞠り、言葉を失った。
 他の、彼女に見惚(みと)れている者達とは違う意味で、彼女から目が離せなくなる。
そうしていると水兵さんが艦長に命じられてマリアンヌを呼びに走っていった。
 意識を彼女から逸らせてその背中を見送っていると、ふと背中に視線が刺さる。何かと振り向いた先で視線が合ったのは例の搭乗者。彼女はじっとこちらを睨んでいたかと思うと、視線が合った瞬間懐かしそうな顔をした。
 それでロドリグは確信する。彼女が誰か






 夜も更けた頃、ロドリグは救護室で独りお茶を飲んでいた。するとそこに、軽いノックの音がする。
「開いてますよ。入ってください。どうしま―――」
 立ち上がって戸口の方に顔を向けたロドリグは、意外な客人に驚いたように数度瞬いた。
「―――アルドさん、お久し振りですね。どうぞ」
 一瞬呆けただけで後は冷静に席を勧めてくるロドリグに金の髪の客人は苦笑する。
「あのぉ。私、ミリー・グッドナイトと申します。そのアルドさんという方では……」
 頬に手を当て困ったように微笑むミリーに、ロドリグもう一つ紅茶を用意しながらなんてことのないように答える。
「この仕事に就いていると首周りとか見るだけで男女の区別が付くんですよ。どうぞ座ってください」
 にっこりと穏やか笑顔を向けるロドリグ。ミリーはぽかんとすると、まもなく声を立てて笑った。『ミリー』としてではなく、昔日に別れた友(アルド)として。
「ロドリグくん随分立派になりましたねぇ。ちょっと面白くないです」
 いたずらっ子の笑顔で、アルドは勧められた席に着く。ふわりと、温かい紅茶の匂いが鼻腔をくすぐった。
「でも、きっと分かってくれると思いましたよ。友達ですもんね、僕達」
 無邪気な少年の笑顔が閃く。ロドリグは笑顔で頷き自分も席に着き直した。
それから少しの間、窮屈ではない沈黙が訪れる。
「――――ありがとうございました」
 ややあって口を開いたのはアルドだった。
 ロドリグは何のことか分からずに首を傾げる。その彼に小さく微笑んでから、アルドはとある単語を口にした。はっと、ロドリグは目を見開く。
 彼が口にしたのは、卒業前にロドリグ達が救援に向かった村の名前だった。
「―――この村、僕達の村なんです。マリアンヌお嬢様のご寄付のおかげで独立出来た」
 そこから始まり、アルドは話を聞かせてくれた。
 過去には聞くことが出来なかった彼の素性。村の過去。そのために彼らが取った方法。マリアンヌとの出会い。村の独立。あの年不運にも重なった流行病と多数の事故。足りない医者を掻き集めるため、そのための資金を調達するため奔走していたこと。本当は見つけていた自分に声をかけなかった理由。
「だってロドリグ君凄く一生懸命頑張ってくれてるんだもの。声をかけて邪魔するくらいなら徹底的に裏方に回って支援に回りたかったんですよ僕は」
 あの日の少年は面影を残したまま、あの時よりずっと立派な医者になっていた。彼が望んだ通り、多くの人が望む志を持って。
声など、かけられなかった。
「――――ロドリグ君、約束、守ってくれて本当にありがとうございます」
 ささやかな願いは、子供の単なる戯言だった。
 けれど彼は守ってくれた。その穏やかな眼差しを濁すことなく。
ミリアルドは知っている。ロドリグが彼の村を救うために自分の就職を蹴ったことを。その後偶然にもこの船の到着が遅れたためこうして軍医として活動出来ているが、非常に危ない状況だったということを。
 未だかつて、ミリアルドはこれほどまでに深い慈愛と誠意を感じたことはない。
「アルドさん?」
 瞼を深く閉じてカップを握り締めるアルドにロドリグは心配そうに手を伸ばす。触れたのは額。熱は無いようなので安心した。慣れない船旅をすると熱を出す者というものは後を絶たないのだ。
 ほっと息をついたその時、いきなりアルドが机に突っ伏した。同時に身体を震わせたのに驚いたが、どうやら笑っているだけらしい。何がおかしいのか皆目見当の付かないロドリグはただ困惑するだけ。ややあって、首の角度を変え、突っ伏したままの格好でアルドがこちらを見上げてきた。
「――――君は、本当に『いいお医者さん』ですね」
 感慨深く囁いて、アルドは手を―――小指を差し出して来る。その意味に気付いたロドリグもまた小指を差し出して、その細い指に絡ませた。
「――――これからも、そうありたいと思います。辛い思いを我慢しなくちゃいけない人が一人でも減るように――――」
 目下の救済の対象は、この友人と同じ色合いの少年だろう。含み笑いをしながらロドリグはそう考える。


 永い時を経た後の邂逅に騒がしさは無く、少年達は穏やかな時を思い出話に花を咲かせて過ごした。
 夜は、静かに更けていく。














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