◇前編2
早駆けの馬車を使ってロダー家の門前にたどり着いたのはそれから30分後だった。馬車の中で最低限の身だしなみを整えたので門前払いはされないだろう。そう思いながらも内心どきどきしながら正面玄関に向かった。
出迎えてくれたメイドの女性に引き連れられ、向かった先はマリアンヌの部屋だ。
彼女の上司だということ、何度もお呼ばれしたことがあること、そして何より名門エリオット家の名がロダー家から疑念は邪推を取り外す役に立ってくれることをこの時ほどありがたく思ったことはない。おかしな取調べがないので余計な時間をかけずに彼女の元へ行くことができた。
「それではわたくしはこれで」
「はい。ありがとうございました」
案内してくれたメイドに頭を下げ返して見送ってから、ロドリグは1度深呼吸してドアをノックする。恐らく烈火の如く怒っているだろう。怒鳴られるのや女装 させられるのは覚悟しておかなければ。
「どなたですか?」
問い返してきたのは彼女専属メイドでロドリグにとっては幼い頃の友人である彼――の妹 、ミリー・グッドナイトだ。ロドリグはほっと息を吐く。彼女が対応してくれたのなら少しはマシだろう。
「こんにちは。エリオットです。マリアンヌはいますか?」
「…………おまちください」
妙な間があったが気付かないロドリグはとにかく謝る言葉を心の中で何度も繰り返して唱えた。どんな理由があろうと遅刻は遅刻。まずは誠心誠意謝らねば。そう心に決めていた。
ややあって扉が開くと、その向こうからマリアンヌが顔を覗かせる。ロドリグは目の前まで来たマリアンヌに何度も心の中で練習した言葉を告げようと頭を下げながら口を開いた。しかし、それが言葉になることはない。
最初に言葉を止めたのは俯き加減だった顔が勢いよく上げられた時に空に舞った涙の粒。怒った顔。それに驚いている間に思い切り振りかぶった手に更に行動を止められてしまう。
そして、ほんの一瞬の躊躇もなくその手は過 たずロドリグの頬を張った。今までの人生ではじめて女性から貰った平手打ちに呆然としていると、怒りが収まらないらしいマリアンヌに思い切り突き飛ばされる。後方にたたらを踏んで尻餅をついたロドリグがジンジンする頬に手を当てながら見上げたマリアンヌは顔を真っ赤にして彼を睨みつけていた。
「帰れっっっっ!!」
怒鳴るや否やマリアンヌは部屋の中に駆け去ってしまう。
「あっ、マリアンヌ!」
慌てて追いかけようとすると素早く扉の前に立った金糸の髪と海の碧さを称えた眼差しをしたメイド服の麗しい女性――――ミリーに止められた。
「アルドさ――――」
「お帰りください。お嬢様はご気分が優れません。それに私は兄 ではありません」
女神のような極上の笑みを浮かべるその裏に隠されたこの上ないほどの怒りを感じ取ったロドリグは危機感知をしてごくりと喉を鳴らす。いっそこのまま走って逃げ去りたい気分だったが、それではあまりにマリアンヌに失礼すぎる。かといって、今はロドリグの話を聞いてはくれないだろう。
そうなると、解決の糸口はこの人物しかいない。
「ミ、ミリーさん、申し訳ありませんけど少し付き合っていただけませんか?」
小さな声で中にいるマリアンヌに聞こえないようにそう頼むと、ミリーは薄笑いを浮かべた。「何言ってんの?」と言葉にしなくても伝わってくる怒りは分かっているが、諦めるわけにも行かずロドリグは何度も「お願いします」と頼み込んだ。
何回目かのリピートを終えると、ミリーは呆れたため息をつく。
「……3時から休憩ですから、近くのカフェで待っていてください」
「はい、ありがとうございます」
どうやら彼女にはまだ取り付く島がありそうだ。本気で安堵してロドリグはその場を後にした。
「マリアンヌ、あの、本当にすみませんでした……」
最後に部屋の中に向かって投げた言葉に返答はなかった。
* * *
ミリーに言われたとおりロダー家のすぐ側にあるカフェにやってきたロドリグは、1階の窓際でカフェラテを飲んでいる。ここのカフェラテは好きなのだが、今はどうにも味が分からない。
「お待たせしました」
「あ、ミリーさ――――じゃない、アルドさん」
肩を叩かれ振り向けば、そこに立っているのは金糸の髪と海の碧さを称えた眼差しのスーツを着た男性。マリアンヌ専属メイドであるミリー・グッドナイトの双子の兄 にして、ロドリグの古い友人であるマリアンヌ専属執事のミリアルド・ミッドナイトだ。姓が違うのは幼い頃に妹が別の家庭に貰われていったためで、マリアンヌが引き合わせてくれたおかげでようやく再会できた、ということになっている 。
ミリアルドは着ていたコートを脱ぐと側にいた――――彼に見とれて立ち止まっていた――――ウェイトレスにコーヒーを頼んでロドリグに向かい合うように席に着いた。
「――――2重生活、慣れました?」
問いかけるとミリアルドは青年の表情で微笑んだ。
元々ミリー・グッドナイトとしてロダー家の次女・マリアンヌ専属メイドを勤めていた彼が同時にミリアルド・ミッドナイトとしても過ごすようになったのは数ヶ月前のからだ。
ある時、マリアンヌの姉・アンナに呼び出されたミリーはそこで素性をあらかた晒されたらしい。彼女自らの口でミリー……もといミリアルドの経歴を口にされた時はさすがのミリアルドももう駄目かと思ったという。
だが、結果は現在に至るとおり、むしろ全面バックアップでロダー家での立場が上がっているほどだ。その時のアンナ嬢曰く。
『随分マリアンヌは信頼しているみたいだし、あの ソフィアの推薦まであるんだったら無碍には扱わないであげます。このままミリーとしてあの子に仕えなさい。あと、ボディーガードの意味も込めて男としても生活なさい。経歴等はこちらでなんとかします。――――あの子を裏切ったら社会的に抹殺してあげますから、その時は覚悟なさい?』
とのことだ。貴族のプレッシャーに慣れた(ロダー家は貴族ではないが)ミリーですらぞくりとさせるほどの「本気の目」をしていたらしい。ロドリグはあまりアンナに会ったことはないが、よほどマリアンヌが大切なのだろう。
しかしどうやらその感情を妹にばらしたくないらしく、その後に据わった目でこう言ったらしい。
『言っとくけどマリアンヌにこのことを言ったらありとあらゆる手段を使って苦しめますから! 間違っても、絶対、何があっても、言うんじゃありませんよ!?』
そっちの方が罰が重いの? という類の言葉をミリアルドは必死で呑み込んで頷いたという。
「ええ、随分。――――で、ロドリグ君?」
細い指がテーブルを叩く。笑顔は変わらないのに纏う空気ががらりと変わった。ロドリグは石化したように動きを止める。
「そんな世間話をするために呼び出したわけじゃありませんよね? この忙しい時期にメイドの貴重な休み時間潰したんですものそれ相応の言い訳を聞かせてくださいますよね?」
ミリーの声でミリーの顔でミリーの態度で、重圧をかけてくるミリアルド。正直マリアンヌに関してはミリアルドよりミリーの方がよっぽど怖いロドリグには効果覿面 だ。
蛇に睨まれた蛙同様に小さくなって硬直するロドリグは、しかし勇気を振り絞って事の顛末を話し出す。最初にひと脅し入れたものの以降の彼(女)はおとなしくロドリグの話を聞いていた。
そして話が終わると、その途中に持ってこられたコーヒーを一口あおりため息をつく。
「なるほど、君の人柄がよく分かる出来事ですね」
呆れたような物言いだが、それでも顔はどこか嬉しさの混じる複雑なものだ。だがそれも、ロドリグに「良き医者」であることを望んだミリアルドだからこその表情と言えるだろう。マリアンヌとの約束を反故にしたのは許しがたいが「医者」として使命を全うし、「良き」者であるがために皆が休ませてやろうとあれこれした。文句も言いづらい。
「あの、マリアンヌがどこに行きたかったのか分かりますか? 今からでも遅くなければ謝って連れて行ってあげたいんで」
「あ、遅いですね」
「すが……う、そうですか」
完璧に言い終わる前にきっぱり言い切られてしまいロドリグはがっかりと肩を落とす。ミリアルドはその様を哀れにでも思ったのか、もうひとつの質問に答えるべく言葉を続けた。
「ロドリグ君、『氷上の舞姫』はご存知ですか?」
最近聞き慣れた通称を聞きロドリグは顔を上げ頷く。
「はい。スケート靴を履いて踊るダンスが非常に上手いお嬢さんでしたよね。仕事場でもいろんな人から話を聞きます。――――確か、近々こちらに来るとか。私も一度見てみたいなと思っているんですが、なかなか時間が取れなくて。こちらに来る時、時間が空いていればいいんですがね」
予想以上に反応されてミリアルドはまたため息をつく。どうやら本能的にマリアンヌの話題を避けたがっているらしいということと、世情に詳しいのか詳しくないのか分からない微妙さに対するものだ。
その反応に今度は気付いたロドリグが何事か尋ねると、ミリアルドはその答えをあっさり口にする。
「ロドリグ君、『いい医者になってください』と言ったのは確かに僕ですけど、世間の流れが分からなくなるほど忙しいのはよくないと思いますよ」
「え?」
何を言っているのかと不思議がる彼のほうがミリアルドは余計不思議だ。
「彼女がこちらに来てもう1週間経ちますよ。それで、今日が民間への最終公演だったんです。マリアンヌお嬢様は君が観たいって言っていたのを覚えていたので頑張ってチケット取ったんですよ。ちゃんと見られるよう周りの人に君に休みをくれって頼み込んで」
ミリアルドは今でも鮮明に覚えている。実家のコネではなく自分の力でチケットを獲得し、「いつもお世話になっているから」と彼の休みを彼のために打診して、今日のために新しい服まで縫っていた彼女を。
そして今朝、約束の時間になっても公演が始まる時間になっても公演が終わる時間になってもやってこなかった彼を待ち続けていた彼女を。
「っ」
「いたたたたっ。ア、アルドさん、すみませんすみません! ごめんなさい!!」
思い出したら腹が立ってきた。ミリアルドは手を伸ばしてロドリグの耳を思い切り抓る。5秒ほどそれを続けてから離すとロドリグの耳は真っ赤になっていた。
ロドリグはそれを押さえて悶えている。これは地味に痛い。
「……私はどうしたらいいんでしょう? ただでさえあの子に悪いことをしてしまったのに、そんなに頑張ってくれたと知ったら余計このままじゃ済ませられません」
生来の真面目さがありありと浮かぶ。ミリアルドはそんな友人を見て頬杖をついた。
本当は大事なお嬢様を悲しませるような輩は即行で排除するのだが、相手は恩人でもあり旧友でもあるロドリグ。何より本気で反省しているし、理由も職務を全うした結果と周りに好かれているがためだ。
少し手を貸すくらいなら、いいだろう。
「――――仕方ありませんね。挽回のチャンスを差し上げます。お嬢様を宥めて「ディナーに誘っておいでです」とお伝えしますから。謝罪に何をするかは君に任せます」
彼女を宥めてくれるだけでも今のロドリグにはありがたいことだ。話を聞いてくれなければ謝罪も何もない。
「ありがとうございますアルドさん!」
「どういたしまして。では、僕はこれで失礼しますね。妹 の仕事の時間なので」
一人二役というのは決して楽ではない。ミリアルドはあまり屋敷にいないということになっているがミリーは基本的にいつも屋敷にいる。ミリアルドの仕事は少なくともミリーの仕事は多いのだ。
レシートを掴みかけた手を「自分が払う」とロドリグが止めた。話を聞いてもらった上にこれからまた一仕事してもらうのだ。これくらいしなくては罰が当たる。
「そうですか? ではお言葉に甘えて……。あ、じゃあ最後にアドバイスを。せめてプレゼントのひとつは用意してくださいよ? 時期にあったものをね」
ウインクをすると後ろの席のこちらを向いていた女性がカップを取り落とした。ガシャンと音を立てて壊れたそれを片付けに来たのは先ほどのウェイトレスだ。女性2人は何故か頷きあっている。
「時期に、ですか? えーと、年末ですし……」
口元に手を当て真剣に悩みだしたロドリグとは反対にミリアルドは驚いた顔をした。
まさか、いやでも……有り得る、か?
ミリアルドは引きつった笑顔でテーブルのロドリグの目の前の辺りをノックするように叩く。
「もしもし、ロドリグ君。君、今の時期で何を思いだします?」
唐突な質問にロドリグは目をぱちくりさせた。
「え、えっと、年越しですか……?」
当たって欲しくなかった予想通りの反応にミリアルドはテーブルに突っ伏す。
「暮れの元気なご挨拶する前にイベントがもうひとつあるでしょうが。明々後日 ですよ? 若いんだからそっちを先に思いついてくださいよ」
「……………………?」
まるで分からない、と言う顔をするロドリグ。ありえないと叫びたいが、このどこか抜けたある意味仕事一直線の青年の前には無駄なのかもしれない。ミリアルドは深いため息をつく。
「……………………ヒント。赤い服着た白ヒゲのおじいさんがトナカイの引くそりに乗ってプレゼントを配ります」
「あ。クリスマス」
ロドリグはようやく分かったらしく笑顔でぽんと両手を叩き合わせる。ミリアルドはこめかみに手を当てた。
「――――私、今猛烈にマリアンヌお嬢様が不憫でなりませんわ……」
自然と口調がミリーになるほどの天然ぶりに、ミリアルドは愛するお嬢様が哀れで仕方なかった。
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