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◇後編4

 

 こんな日にまで仕事を持ち込むな。そう言ってエリザベスが疲れたように笑ったのが原因だ。いつもそんな顔しないから理由は それ(・・) しか考えられないと思って、口にしていた。


「あ、はい。リズさん」


 確かマリアンヌがそう呼んでいたはずだと思いだしながら呼び方を変えてみる。艦長からこれは違和感がありすぎて仕方ないが、これで彼女が満足してくれるならいいだろう。そう思った。だが、振り返った彼女から返されたのは返事ではなく拳だった。


「え」


 殴られたことよりもその時のエリザベスの表情の方がルイスを驚かせる。基本的にいつも飄々としているか凛としているか硬い表情をしているかの彼女が、頬を赤くしていた。


「~~お、お前は、ファミリーネームを何だと……っ!!」


「え、あ……あっ!」


 言われて気付く。そうだ。職名でなくとも名前で呼ぶなら苗字で呼べばいい。なのに、何をとち狂ったか呼びかけたのは愛称で。長い間寒い所にいたせいで思考が凍りついたのか、言われてはじめてそれに気が付いたルイスはエリザベスのそれが移ったように、今まで以上に頬を染めた。


「すすす、すみませんっ。他意があったわけじゃなくて、自然に出てきたって言うか、あの……っ!!」


 別に、女性の扱いが苦手なわけではない。これでいてもう何人も女性とは付き合ってきている。その中には愛称で呼んでいた (ひと) だっている。けれど、何故だろう。エリザベス相手だとその調子が出ない。


 慌てるあまり言い訳の言葉すら出てこない。結局真っ赤になって停止してしまうと、エリザベスの方がまだ少し赤い顔で憮然としながら「もういい」と言ってきた。


「もう行くぞ。早く乗れ」


「は、はい。……その、ナディカさん」


 改めて言い直して彼女が乗ってきた馬車に続いて乗り込む。そして彼女が乗った側と向かいの席に座った。指示をしなくとも空気を呼んだ御者が走り出すと、蹄が石畳を蹴る音と車輪が回る音だけが2人の間を埋める。





 薄暗い馬車の中で、それでもルイスはエリザベスに目を向けることは出来なかった。昔は彼女と2人でいることなんてなんともなかったのに、長く離れてしまったせいかそれとも単に先ほどのことがばつが悪いのか今はどうしたらいいのか分からなくて仕方ない。


 変に胸が脈打つのは何故だろうか。寒いはずなのにどこか熱い気がするのは何故だろうか。


 何か考えようとすると頭の中がごちゃごちゃになるので何も考えないようにしていると、突然向かいから大きな音がした。驚いてそちらに目を向けると、エリザベスが頭を抱えている。……察するに、頭をぶつけたのだろう。


「……ね、眠いんですか?」


「……否定はせん」


 よほど根をつめて仕事をしているのだろう。彼女は昔から何かはじめるととことんやる人だった。


「……ヴォネガ。こっちに来い」


「へ?」


「…………肩を貸せ。ロダー家に着くまで寝る」


 つまり枕になれと言っているらしい。もはや頭は眠りの (もや) に巻かれて理性的に物事を考えられるだけの働きは出来ないのだろう。いつもの彼女なら決して言わないことを平然と言ってのけている。


 しばらく硬直して返答に困っていると、鬼のような目で睨まれ急かされた。ルイスは昔の癖で返事をするときびきびとした動きで彼女の横に座る。その自分の反射とも言える行動を自覚したのは彼女の頭が自分の肩に乗った時だ。


 軽く混乱したルイスだが、窓から断続的に差し込む街灯の明かりに照らされた彼女の顔を見たら一気に落ち着きを取り戻した。


 少し差し込む程度の街灯の明かりでも分かるほど、すっかり寝入ってしまった彼女の疲れは顔に出ている。少しやせた。やつれるような意味で。目の下には濃いクマもある。肌の調子もあまり良くないように見えた。元々気にする人ではないがここまでひどい状態ははじめて見た。


「――――艦長、僕はあの時、少しだけあなたのことを恨みました」


 彼女が軍を辞めたこと。自分に相談のひとつもなかったこと。一番近くにいたつもりなのにそう思ってはくれていなかったのだと悲しくなった。


「今も少しだけ寂しい気もします。あなたがこんなに頑張っていることが何なのか、僕はノーランド君よりも知らない」


 別に、昔に戻りたいわけではない。今の立場を捨てる気はないし、トマスに成り代わりたいとも思わない。そんなこと考えているならマリアンヌやロドリグと違って手紙のひとつ交わしたことのない現状から変えるべきだろう。けれど、きっとそれは今ではない。


 執着がないわけではない。だが彼女がやろうとしていることに今自分が口を出すべきではないのだろうと感じている。だから彼女も自分にも他の者にも何も言わない。


 けれど、いつか彼女がそれでも自分に今何しているかを話してきて、そして自分の助けが必要だと言ってくれるなら、もしかしたら――――。


「――――なんて、戯言ですね」


 自嘲を含んだ笑みを浮かべ自分の肩に寄りかかっているエリザベスの頭の上に更に自分の頭を乗せる。そして、そっとその手を取った。完全に寝入ってしまっているらしくエリザベスに起きる気配はない。


「けど、今夜だけは戯言のひとつ許されますよね?」


 この聖なる夜なら、願うつもりもない夢を見たって許されないだろうか。たとえば、あなたについて行きたかった。あなたを支えていたかった。――――なんて、そんな夢。


「……そんなの単なる、戯言ですけどね……」


 呟き、気が付くと握り締めていた手を、ゆっくり上げる。そして、口元まで持ってきたそれにそっと口付けを落とした。





「――――メリークリスマス、“     ”――――」


 ルイスはそっと呟いた。言葉にしてはいけないその言葉を。この夜だけは呟かせて欲しいと願ってしまった、その言葉を。


 けれどその言葉を聞く者は誰もいない。その言葉を向けられた彼女にすら聞こえない。聞くもののいないそれは、聖なる夜の落し物。


 ふと街から聞こえてきたのは、一昔前にはやったクリスマスソングだったろうか。




 










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